「怒り」というとき、私たちは、思うに任せて攻撃的になることを怒りだと思っています。

それも「怒り」です。

それも「怒り」ですが、攻撃的になって物理的に危害を加える事だけをいうのではありません。

素直に表してくれるのならまだ分かりやすいですが、人はそんなに単純ではありません。

攻撃を加えることのない「怒り」も当然あります。

「しない」という表し方

分かる方には分かることですが、攻撃の真逆で、「しない」という表し方があります。

例えば、「嫉妬」

「嫉妬って怒りではないんじゃないの?」

と思うかもしれませんが、嫉妬は怒りの一形態であるということが出来ます。

どんな場合に私たちは嫉妬するのか。

あなたも覚えがあるはずです。

「アイツの家は金持ちだから、何でも買ってもらえるんだって!」

「あの人の彼氏(彼女)、めっちゃカッコイイ(カワイイ)んだって、いいよね〜」

「親のコネで一流企業に就職できたんだって。やっぱ違うね〜」

自分が望んでも得られない状況を容易に手にしてしまう(ように見える)人に対して、気づかないうちに私たちは怒りを覚えます。

その怒りは、手に入れている相手に対して、あるいは手にできない自分に対して、両方あります。

相手に対してであれば

「おまえばかりいい思いをしやがって!!」

自分に対してであれば

「なんで俺(私)は、こんな平凡な家庭に生まれて苦労ばかりしているんだ!」

というようにです。

でも、相手に対してその怒りをまともに表せるわけはありません。

自分に対して起こったところで、さらに惨めな思いをするだけですから、感じていることすら気づきたくありません。

だからどうするか。

知り合いであれば、相手を「無視する」あるいは「付き合わない」ようにしていく。

知り合いでなければ、その存在自体をなかったコトにして忘れる。

つまり、「しない」ということで怒りを表現していることになります。

感情は「センサー」

私たちは、何の前触れもなく感情を感じることはありません。

それまでに必ず前振りがあり、その積み重ねがあったからこそ感情を感じる瞬間が訪れます。

時間的感覚、時間的長さは関係ありません。

大切なのは、感情を感じるまでの「事実」と、その時々の「心の動き」を認識しているかどうかです。

その過程では、必ず自分自身の「フィルター」を通して事実を認識しています。

感情を感じてしまった後に何をしようが、その過程の「フィルター」を認識しなければ、いつまで経っても感情に振り回されその対処に明け暮れることになります。

だから、私は以前から言っているのです。

感情を後からコントロールし、マネジメントしようとすることには意味が無いと。