最近、世間を賑わせている話題の一つに、週刊文春による「小室哲哉氏の不倫報道」と、氏の引退発表があります。

私個人としては、芸能人・著名人のプライベートに関する報道に興味はないのですが、マスメディアの度を過ぎた私生活への介入は、一種の「社会的いじめ」であると言わざるを得ないので、取り上げることに致します。

いわゆる「文春砲」を肯定する人たちはこう言います。

「社会的影響力が大きい人だから批判されても仕方ない」

「自ら進んで芸能人になっているから、ある程度の犠牲はつきものだと分かっているはず」

これに対して、否定する人たちはこう言います。

「社会的影響があるからプライベートを暴露してもいいとは限らない」

「ものには限度があり、介護疲れなどによる彼の精神的な疲弊に対する配慮がないのは問題」

大切なのは、どちらが正しいのかということではありません。

こうした報道に対する私たちの言動が矛盾したものになっているということに、私たち自身が気づいてないため「社会的いじめ」を知らないうちに助長しているということです。

週刊文春の売上に見る私たちの矛盾

近年の出版不況で、各社軒並み売上部数が大幅に減少しているにもかかわらず、週刊文春は、過去10年間で売上部数の減少が約1割程度に留まっています。

これは何を意味するのか。

週刊文春の報道のあり方に疑問を持つ人が多くいるにもかかわらず、その中の一定数は週刊文春を購入していると見るのが自然ではないでしょうか。

つまり、心の中では疑問に感じていても、やはり話題に興味があって雑誌を手を伸ばしてしまう。

結果として、雑誌を買うことで週刊文春の報道のあり方を肯定していることになります。

ここに矛盾があります。

例えて言うなら、クラスルームの時間でいじめはいけないことだとしておきながら、実際にいじめがあると何も見なかったふりをすることと同じです。

本当に週刊文春の姿勢を批判する人が多いならば、他の雑誌以上に売上が落ちているはずです。

テレビを中心としたマスメディアが大きく取り上げていることも影響しているので、一概に言えない部分はありますが、私たちが自分の興味を優先するあまり、マスメディアの性質を忘れてしまっています。

それは、「限定的な視点から【針小棒大】に報道する」ということです。

社会的いじめを減らすには

私たちは、小室哲哉氏の一体何を知っているのでしょうか。

確かに、音楽の世界で一時代を築いた業績は、誰も否定することはできないことです。彼の楽曲は多くの人に支持され、耳にしないことはないほど世の中に浸透しています。

翻って、一個人としての彼を知る人はごく一握りのはずです。限られた人にしか見せられない素顔、そして誰にも見せられない苦悩や葛藤を、私たちが知る術などあるはずがありません。

それを、数多くの事実の一側面だけを切り取り、「不倫」だ「裏切り」だと断定的に報道することで社会から抹殺してしまう、これほど恐ろしいことはありません。

肯定することも、否定することも、ベクトルが違うだけでエネルギーを与えてしまっている点では同じです。

大切なのは、こうした社会的いじめを、いじめに繋がる行為に「無関心」になることです。肯定も否定も関心を呼び起こすことになり、結果として行為を継続させることになってしまいます。

つまり、私たちが精神的に成熟していかない限り、こうした社会的いじめは繰り返されます。

問われているのは、小室哲哉氏でも、週刊文春でもなく、私たち一人一人の在り方です。