(2018年5月9日更新)

最近は、心の世界について関心を持つ人も増え、よく勉強されていると感心することもあります。

しかし、その反面、「勉強」してしまうことの問題があることもはっきりしてきました。

心について学んでいると、こんな人に出会うことがあります。

「Aさんは〇〇なことを言うし、△△な症状と近いから、きっと◆◆という病気なんだと思う」

「Bさんは、**なことを言うけど、□□の理論からすると違うと思う」

話を聞いていると、当然のように感じてしまうかもしれません。

確かに、正しいことを言うことも大切かもしれません。間違いを正すということであれば必要なときもあるでしょう。

ただ、人の心に関して言えば、目に見えないものであるだけに「断言」や「正しさ」がどこまで必要なのかに対しては、疑問を持つことも重要です。

そう考えたとき、「正しさ」を求めることに意味があるのでしょうか?

感じていることを無視してしまう

私は、学問的知識を軽視しているわけではありません。

むしろ、学問的知識を知ることは理解を深めるためには重要です。知らなければ考えることすらできないのですから。

その意味でも、知識を持っていること自体は大切なことです。

ただし、知識を持っているからと言って、それを振りかざして「判断」することは、時に「生の」感覚・感情を無視することになりかねません。

その瞬間に感じていることは、学問的知識とは比較にならないほど重要なことを私たちに教えてくれています。

その生の感情から来る学びを無視しておいて、一体何を学ぶというのでしょうか。

ただし、感じる瞬間というのは、本当に一瞬です。その一瞬を捉えるためには自分自身の「アンテナ」を研ぎ澄ましておくことが必要です。

そうして得た生の感情をきっかけにして、学んだことを自らの血肉にしてからでなければ、いくら学問的知識を学んだところで何の役にも立ちません。

なので、そうした「判断」をして知識ばかりを使おうとする人たちに出会うと、私はこう言うのです。

「仮にそんな相手だとして、あなたはどう関わろうと思うのですか?」

「もしあなたの判断が誤っていたとしたら、あなたはどうしますか?」

こう問いかけると、彼らは一様に口を閉ざしてしまいます。

なぜなら、知識に頼っているために「自分がどうしたいのか」を全く考えていなかったからです。

「自分自身を知る」のが先

「自分自身を知る」

言葉では簡単に表すことはできますが、それを実践するとなるとこれほど難しいことはありません。

なぜなら、いわゆる難易度が高いからではありません。継続することのできる人が極端に少ないからです。

特に、人の心を扱う側に立ってしまうと、「自分が相談者からどう見られているか」「自分という人間が周囲からどう見られているか」ばかりに気を取られてしまいます。

いつも外からの目ばかりを気にするようになり、自分自身の心の内側に目がいかなくなります。

そうすると、どんなことが起こるか想像できますか?

それはこうです。

自分のところへ来る相談者の抱える悩みは、自分が一番見たくない部分を思い起こさせるものであることが多くなります。

こういうとすぐに「それはその人が引き寄せたからでしょ」と言いたがる人がいますが、そうではありません。

その人が乗り越えられていない悩み・問題、頭では無視できているつもりでも、心では最も多くの部分を占めているため、そこに焦点が当たってしまうのです。

大げさに言えば、どの相談者の話を聞いていても、その部分に焦点が当たっている状態になります。

私は、自分自身の抱えている悩みや問題と向き合うことをしないまま、カウンセラー・セラピストなどを名乗って活動している人をたくさん知っています。

そういう人に限って、「自分を魅せる」ことばかり考えてしまい、ビジネスとして成り立たせることしか考えていません。

本当に悲しいことです。

だからこそ、人の相談を受ける立場になることを望むのであれば、知識を詰め込む前に自分自身と向き合うことが重要になってきます。

知識など、後からいくらでも覚えることができるのですから。