昨日皆さんにお話した「富士山麓神社巡り」

お参りをするとき、よく見ると気づくことができるかもしれませんが、「鏡」を祀ってあることが多いのに気づかれたでしょうか。

仏閣では神様を描いた絵図や仏像などが御神体として祀られていることがほとんどです。

これに対して、神社では御神体の前に鏡が置いてあります。

多くの神社では

「清らかな気持ちになってお参りしていただくためです」

「鏡を通して、神様と向き合っていただくためです」

このように説明されているようです。

しかし、鏡に写るのは一体誰でしょうか。

そうです。神様ではなくあなた自身です。神様と向き合うというのであれば、神様が映らなければいけないはずですが、現実的にそんなことはあり得ません。

ということは、自分自身を鏡に写すことに意味があると考えるのが当然ではないでしょうか。

自分を知ることの難しさ

日本の神社とは異なりますが、その原型とも言える古代ギリシャのアポロン神殿の入口には、このように刻まれていたそうです。

「汝自身を知れ」

この意味は一体何なのでしょうか?

古代ギリシャの時代と言えば、日本の記紀以前の時代であるともいえます。

そんな古くから、私たちの先人たちは「自分自身を知る」ということに対して、非常に重きを置いていました。

哲学の始まった場所でもあるギリシャで生きていた人々は、そこまで重きを置くのは「自分を知る」ことの難しさを十分知っていたからではないでしょうか。

では、なぜ難しいのか?

私はこう思います。

複雑すぎて理解できないのではありません。日常を生きていく中で周囲から受ける影響力があまりにも強すぎるため、「自分を知る」努力を続けるのが難しいのです。

日常の中で「ひとり」になることは非常に難しい状況に、現代に生きる私たちは置かれています。

物理的にではなく、精神的に「ひとり」になることをです。

テレビの影響力が未だに大きく、スマートフォンによりいつでもネットに接続できる環境を持てるようになった。

その結果、私たちが考えを巡らすとき、そこに誰かとの関係性が否応なしに入ってくることに、あなたは気づいているでしょうか。

自分の望んでいることが、本当の心の底から出てきたものなのか、広告やネットに踊らされてしまった結果なのか、非常に見分けがつきにくくなっています。

「あなたが心から望んでいるものは何か」

それに気づかないまま、徒に時だけが過ぎていくのはとても悲しいことです。

神様が実際にいるか否かは別として・・・

神社の御神体の前に鏡が置かれていること

それは、私なりに考えるとこういう意味なのではないでしょうか?

「この一瞬だけでも、あなた自身のことを知るために、あなた自身のことを振り返って自省しなさい」

もちろん、これは私の解釈なので同意できないこともあるかもしれません。

よく「鏡を見て自分を褒めよう」ということを言う方がいらっしゃいますが、そうした「自己暗示」の類は、むしろあなたの心に負担をかけてしまいます。

なぜなら、「自分を褒める」のは、その前提としてある「今の自分が認められない」ということを、まったく御座なりのままにしているからです。

それよりも、日常で鏡を見たとき、鏡に写ったあなたを何の評価もせずに受け止められるかどうかのほうが大切です。

あなたの「今」を否定して、いくらポジティブになれることをしたところで、一体何の意味があるのでしょうか?

「今」を置き去りにして、未来の「あるべき私」ばかりを見る、そんな地に足のつかないことをしていては時間ばかりが過ぎてしまいます。

そんなことはもう止めにしませんか?