昨年の9月に大神神社へ参拝をしたことは、皆さんにお伝えしました。

<参考記事>京都の旅を終えて(2017年9月16日)

あのとき、大神神社の拝殿前に立った瞬間に涙が止まりませんでした。

その理由は私にも分かりません。なぜかは分かりませんが、お腹の底からこみ上げるものが抑えきれなくなり、しばらく立ち尽くしていたのを覚えています。

私がなぜ神社の話をするのか、不思議に思う方もいらっしゃると思いますが、私は「祈り」というものの力を小さい頃から感じていました。

奇跡を起こすとかそういうことではなく、祈りという誓いを自分自身にすることで、いじめを乗り越えてきたからです。

祈りは「意宣り」

私は、心理学だけでなく宗教に関する本なども読み研究したことがあります。その中には神道に関する本もあり、こんな一節がありました。

「祈りは『意宣り』、つまり自らの誓いを神様に述べ、その誓いが達成されたことを感謝すること」

私たちは神社やお寺に行くと、必ず「お願い」をしてしまいます。「してしまいます」というとおかしな言い方に聞こえるかもしれませんが、それが当たり前だと思っています。

私も最初のうちは「おばあちゃん、助けてください」と仏壇に向かって祈っていました。祖母が亡くなってから私を取り巻く環境は次第に悪くなっており、毎晩寝る前にこんなことを祈っていました。

しかし、本来神社は神様に対してお礼と感謝を伝える場所であって、お願いをする場所ではありません。お願いと言えば聞こえは良いですが、神様に対して

「神様なんだから、私の願いを叶える義務があるんですよ」

と要求しているのと同じです。お願いの仕方は関係ありません。こんな「要求」を叶えてくれると思いますか。私は思いません。

祖母が無くなってしばらく経つと、私は仏壇に向かってこう祈るようになっていました。

「僕は、さすがおばあちゃんの孫だと言われるようになるから」

私は「お願い」ではなく、祖母に向かって「誓い」を立てていました。今だからこそちゃんと祈ることができていたのだと思いますが、当時は、そんなことは知らずに祈っていました。

決定成就と引き寄せの法則

神道には「決定成就」という概念があります。端的にいうと

「既に叶ったものとして、心に深く刻まれるまで祈り続けること」

ということになるでしょうか。

これは私の想像ですが、おそらく「引き寄せの法則」と同じだとあなたも思われたのではないでしょうか。確かに、イメージ的には同じように思われるかもしれませんが、全く違うことがお分かりでしょうか。

決定成就は、深い祈り(意宣り)を継続することで、無意識の領域まで「既に叶った」ということを刷り込んでいきますから、疑うということすら意識に上りません。

これに対して、引き寄せの法則を端的に言えば、神様(宇宙)にお願いを預けて良い気分でいることを心がけることを言います。

そこには「叶っていない現実を受け入れてしまっている」という前提があります。ここが根本的に異なります。

いくら良い気分でいたとしても、「叶っていないという現実」を受け入れている限り決して祈りは叶うことがありません。

決定成就というとき、叶ったものとして無意識の領域まで自ら刷り込みます。自己暗示などという生半可なものではありません。祈り(意宣り)とは、自らの命を懸けるくらいの思いの強さがあります。

私は、明日その祈り(意宣り)を捧げてまいります。