私に知り合いに、スピリチュアルやパワースポットに興味のある方がおり、その人からお誘いがありました。

「富士山の【金運神社】に一緒に行きませんか?」

「あの船井幸雄さんが『お金が欲しかったらこの神社へ行け』といった神社らしいですよ!」

私は「パワースポット」と呼ばれるものを頭から信じているわけではありませんが、周囲でそれだけ足を運ぶ人がいるならば、一度自分の目で確かめてみようと思い、早起きをして行ってまいりました。

訪れた神社は、①正一位漣神社、②新屋山神社、③新屋山神社(奥宮)、④北口本宮浅間神社、⑤富士御室浅間神社(里宮)の5社です。

「護られている」ことと「整備された」こととの違い

私は神社の起源・由来や、風水的な知識を持っていません。私が持っているのは「人の心理を読み解く経験」です。

その観点から見たとき、「土地の人たちから真摯に敬われ護られてきた場所」なのか「観光客のために整備された場所」なのかくらいはわかります。

私の個人的な観点なので、納得できない人もいるでしょうが、その点はご容赦ください。

 

ハッキリ言ってしまうと、5つのうち4つは少なくとも「観光客のために整備された」場所であるといえます。

木々に覆われ、一見神聖な場所である雰囲気を醸し出していますが、境内に入ってみるとそれまでの雰囲気とはあまりにも異なる風景が広がっています。

敬虔な気持ちにさせられるような「力」は感じられませんでした。

見えたのは、観光客が写真を撮りまくる姿だけです。

 

観光客を軽視しろというわけではありません。

2020年開催のオリンピックに向かって、外国人も含め観光客は右肩上がりに増えていくことでしょうから、一定程度設備を整えることは必要でしょう。

とはいえ、その場所は土地に根付いた神聖な場所として扱われるべきだったはずです。

土地の人たちがどんな思いでその神社を護ってきたのか、その古の人々の思いがこもった場所であることを知らなければ、神社に行く意味などありません。

「金運が上がるから」

などという理由だけで行くことは、連綿と受け継がれてきた先人たちの「思い」を冒涜するものだと思うのは、私だけでしょうか。

「護られている場所」は体が反応する

では、唯一「護られている」と感じた場所ではどうだったのか。

鳥居をくぐり、参道を歩いているうちに指の先がピリピリする感覚に襲われました。

それが「パワー」なのか私にはわかりませんが、体の芯を揺さぶられる感覚になったことは確かです。

頭で認識するよりも先に、私の体が反応したことには私自身驚きました。

他の神社は、天気が良いわけではないのに観光客が次から次へと訪れていました。

この神社だけは、交通の便も悪くないはずなのに人影もまばら、というか私が滞在していた約30分に訪れた人は10人もいませんでした。

この違いは一体何なのでしょうか。

私にその答えを出すことはできませんが、少なくとも「護られている場所」であることは間違いないと私は感じたのです。