今日はクリスマスです。

昨日のコラムでもお伝えしたとおり、私は普段通り過ごし、多くの人がするように、イチゴの乗ったケーキや鳥の足を料理したものなどを食べるつもりは全くありません。

ただ、私は、今日は祖父のために祈りを捧げようと思っています。祖父は、第2次大戦後に若くして亡くなってしまい、私は会うことすら叶わなかったのです。

祖母が祖父の亡くなった後にどれだけ苦労してきたのかを、母から聞かされて育ったので、私は祖母のことはずっと意識の片隅にありました。一方、祖父については会ったことがないぶん、これまで意識することはあまりありませんでした。

ところが、最近あるちょっとした出来事があり、そのことが私に祖父の存在を意識させることになります。

もらったものに書かれていたのは

1週間前ほどから私は体調を崩してしまい、仕事にも影響が出るほどで、こんなことは近年なかったことだったので、私自身驚いてしまいました。体調が回復してきても、喉が酷くやられていたようで咳が止まらないこともありました。

そんなとき、知り合いから飴をもらいました。素朴な包み紙の飴です。

何気なくその包み紙を見てみると、なんと、私の祖父の名前が書かれているではありませんか!

その包み紙を見た瞬間、私は「おじいちゃんも、私を守ってくれているんだ!」と思い、涙が出そうになってしまいましたが、その場は何とかこらえました。

私は母から、祖母だけでなく、祖父がどんな人物であったのかを聞いていました。昔の人にしては背が大きく、その地域では一目置かれている人格者だったそうです。

その話を聞いていた私は、常日頃から「おじいちゃん・おばあちゃんの孫であることに恥じない生き方」ということを、心の片隅においてきました。

だからこそ、祖父の名前を見た瞬間にこみ上げるものを抑えるのに必死でした。

偶然だと打ち捨ててしまう前に

これを偶然だという人あるでしょう。そう言われるのもわかります。

ですが、自分が苦しい状況にある中で偶然にしては出来過ぎではないかと、何かの力が働いているのではないかと思わざるをえない、些細な出来事かもしれませんが、私はそう感じています。

「そんなの偶然だよ」と言ってしまえばそれまでで、おじいちゃん・おばあちゃんに対する畏敬の念を呼び起こされることもなく、自分自身と省みるきっかけにもできません。

反対に、「これも必然だ」と感じることが出来れば、些細な事であったとしても、それに感謝する気持ちが出てきて心が温かくなります。

今日は、会ったことはありませんが、亡き祖父に対して、もちろん祖母に対しても感謝の祈りを捧げる日にしたいと思います。