先日、こんな場面を目にしました。
電車の優先席に座っていた20代前半と思われる女性、そこに60代後半くらいと思われる男性が目の前に立ち、いきなり
「おまえは席も譲らずに座っているのか!?」
とその女性に説教を始めてしまいました。間髪入れずにその男性は
「席を譲るのは当然のことだというのに、何故そんなことも出来ないんだ!」
と怒り始める始末。女性の方は
「わかってますけど、見ず知らずの人に『おまえ」呼ばわりされたくありません!」
と言い返します。男性も自分の言葉遣いが足りなかったということに気づいて
「そうだったかもしれんが・・・」
と語気が弱くなり、それを見た女性は渋々席を譲りました。
男性の言ったことは「正論」かもしれません。ですが、果たしてこれを「正論」と呼んでいいものでしょうか?
「正論」は本当に「正論」のなのか?
この男性のように
「若い者が年配の者に電車の席を譲るのは人としてと当然だ」
というのは、一般論としては「正論」といえるかもしれません。少なくとも間違ったことを言っているわけではないことは分かるでしょう。
ところが、いくら正しいと思われることを言ったとしても、場面や状況を顧みずに使ってしまうと災難を呼ぶ原因にしかならないときがあります。
それに気づいている人が、一体どれだけいるのでしょうか?
その男性にとっては「席を譲られること」が当たり前になっていますが、年配の人がすべて席を譲られることを望んでいるわけではなく、むしろ逆であるといえます。
つまり「私は席を譲られるほど年老いているとは思っていない」という年配の方のほうが多いのです。
例えば、年配の方同士で電車に乗ってきたとき、空いている席は1つしかなかったとします。
そのとき、譲り合いが起こります。
「あなたが座りなさいよ」「いいえ、あなたこそ足が悪いんだから」
というような会話が繰り広げられるのを、私は何度も目にしたことがあります。
こうしたことに鑑みれば、「お年寄りに席を譲るのが当然だ」という「正論」が、果たして「正論」であり得るのか、甚だ疑問に思わざるを得ません。
自分にとっての「正論」を相手に押し付けない
あの男性は、結局自分の「正論」を女性に押し付ける格好になってしまいました。
それを見ていた、私を含めた乗客の人たちは決していい気分になりませんし、実際その席の周囲から離れていく乗客の方も多くいらっしゃいました。
あの男性が、普段どのように人に接し、どのように思われているのかは一目瞭然です。
自分の「正しさ」にこだわり、それを相手に押し付けることは、あなたのもとから人を遠ざけるだけです。
「正論」という防壁を自分の周りに作ってしまい人を一切寄せ付けない、そんな人生が本当に実りあるものといえるのでしょうか?
日常の一コマの中からでも、学べることは十分あります。
私自身に対する自戒を含めて、自分自身を見つめ直す機会にすることが大切ですね。
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